誰も守ってくれないを見ました.
今年初映画館だったのですが,ボクが見たい映画は世間では人気がないのかガラガラでした.*1


前に何かの映画を見に行ったときに宣伝を観て,何となくみたいなぁ〜って思って.
1月にドラマで「誰も守れない」を観た後に,これは見に行こうと思ったので行ってみた.

途中モントリオール世界映画際で認められたとかって言う記事を見た気もするが,
モントリオール世界映画際がどれほどのものか知らないので参考にはなっていないと思う.


映画を観ていて感じたのは,現代において,もはやマスコミに対した力は無い.
マスコミにあるのは,オフィシャルな情報を報道する権利しかない.

オフィシャルな情報は,マスコミが言葉通り媒体になるけど結局はソースが同じなので差別化は出来ない.
つまり,最低限の知識になる.そして最低限の知識を複数の場所から放送する必要性は全くない.



ところで,2005年からweb2.0ブームの影で「Wisdom of Crowds」(群衆の叡智)という言葉がもてはやされた.*2
ボクなりの解釈を述べると,人間の知識には偏りがある.
誰かが知らない事は,別の誰かが知っている事である.
その「知っている」事だけを集めればなんでも知っている存在が出来上がる.

その一つの成果物がwikipediaだとボクは思う.



さて,なんでこの話をだしたか.
ボクはこの映画を見てこの「群衆の叡智」という言葉が思い浮かんだ.
この映画で描かれていた一つのテーマは「群衆の悪意」だと思う.


少年犯罪が起きると多くの場合マスコミは足並みを揃えて,その少年に関して実名報道をしない.
しかし,加害者はもちろん,その家族,保護している警察の情報までを誰かがネット上に書き込む.
そう丁度,神戸の事件の時の様に.


その情報を見て,一部のヒトがその加害者に対する誹謗中傷を書き込む.
それぞれのヒトが,一瞬感じただけの事を脊髄反射のごとく書き込む.
別に普段の生活の中でずっとそんな事を感じているのでは無く,その記事を読んだ時にフト感じた事を書き込み,
その後,書き込んだ本人の多くは普通の生活に戻っていく.



だけど,その人の感情とはうらはらに書き込んだ内容は半永久的に残る.
そこには,確実に悪意のある文面が残る.



そして,少し遅れてその情報にたどりついた誰かは感じる,「なんだ,みんなそう思ってるんだ.」って.
しかし,書き込んだ本人はカフェでコーヒーを飲んだり,カラオケで友達と遊んだりしてそんな事全く気にもかけていない.



そしてそのネットの情報を観た,誰かの中には加害者の家族への嫌がらせを行なうものも現れる.


その誰かは,何もしていない家族に対して嫌がらせをする事を正しい事だと考えている.
それが民意だと思っているのでしょうか.



恐ろしい事に,誰かは不特定多数なのに,その不特定多数の誰かが対象にしているのは加害者の家族なのである.
不特定多数の少しの悪意が,集まって加害者の家族に当てられる.
まさに,「群衆の悪意」だと思う.


映画内では,最終的に加害者の妹の彼氏が,ネット上での名声を欲しさに情報を流していたから救われない.
このカレはネット上での見知らぬ誰かの中でカリスマになるために,自分の彼女を売ったのである.


こぅ,なってくるとますます友情や愛情と言った繋がりは目には見えなが繋がっている相手は見えるものよりも,
インターネットという繋がっている線は見えるが,相手は見えないものの方が重視される時代になったのかも知れないと感じる.



全く,背筋が凍るねぇ〜.....

*1:もぅ,時期が遅かったのかなぁ?

*2:もぅ,web2.0という言葉は死語に成りつつあるらしい.